遍くデジタル化の波により、複製技術時代は更なる加速を見せ、すでに過去のものになりつつある。次に到来するのは修正技術時代であることは明白で、その時代にあっては「それは=かつて=あった」という作品のノエマは、「それは=かつて=あったかも(なかったかも)」と上書きされる。作品は最早オリジナルのコピーですらなく、フェイクや豆腐や海苔のアマルガムの様相を呈する。複製により礼拝的価値から展示的価値への転換があったように、修正により作品のシニフィエは剥奪され、展示的価値すらも喪失に至るのである。かつて「世界の起源」や「遺作」のように、時代に風穴を穿った作品があった。今、官憲の規制という大堤を前にトラッドハウスは、M字開脚のフレームに嵌められたパンティをタブローとして挑む。観音開きの奥の奥は、意思と技術と妄想とを併せ持った特権的な者にしか見ることができない神秘的体験となる。誤解を恐れずに言えば、その所作は祈りに近いなにかである。世紀を超えて作品は、再び性なるアウラを獲得することになった。「1.腰の落下、2.照明用蛍光灯、が与えられたとせよ」ここに礼拝的価値への回帰が高らかに宣言されている(つづく)